博多年行司
 

博多商人 立石 又左衞門 久明さん のこと

                            博多中  2年1組 立石 オメガ 泰三


















 


 立石 又左衞門久明さんは、 約200年前の江戸時代の博多商人でぼくの御先祖様です。

聖福寺の仙厓さんや 金印を鑑定した儒学者で医者の亀井南冥さんと同時代の人で、住んでいたのは 

今、ぼくが住んでいる所です。その当時は「濱口町濱」といっていました。

    

 今の家は約百年前にひいひいおじいちゃんが 建てかえた 江戸時代と同じ町家造りの細長~い家です 

(入口から裏口までの土間で50m走ができそうです)


 ひいひいおじいさんが昭和15年に表装した、文化8年(1811年)の町割の地図があります

















 又左衞門さんの お墓は 中呉服町の正定寺に 仙涯和尚が『八丁べと』揮毫した西浜屋徳蔵さんの墓と並んであります。 墓石の裏には 新大間池のことが 漢文で刻んであります。





















 又左衞門さんは千石船の船主で黒田藩の御用米を大坂に運んで売る仕事をしていました。

第二次世界大戦前までは その千石船の舳先が 家にあったそうですが 『戦争の時、なくなってしまった』と ひいおばあちゃんが言っていました

















 ひいひいおじいさんの記録によると、又左衞門さんは寛政11年(1799年)に 他の千石船の船主達と

一緒に海の神様だった住吉神社にこま犬を奉納したそうです↓

















 又左衛門さんは『年行司』という任期が一年の、中世以前から続いた博多の町の自治組織の一番えらい役に選ばれて十年以上も務めました。武士以外ではこの役の町人だけが藩主にお目通りができたそうです。

写真は、又左衛門さんと同じ時期に博多年行司を務めた奥村次吉さんが使った年行司装束と年行司幟です






















それから質屋や、黒田藩から任されて藩札の発行をして銀行の仕事もしていたそうです(両替商)

その頃の博多かぞえ歌に「七(質)は立石」と歌われています。



 又左衞門さんは とても信仰のあつい人だったそうです。

 その当時、幼い子供が飢饉や病気で死んでしまったけれどもお金がなくて葬式が出せない親があって、又左衞門さんの家の前に遺がいを置いていったそうです 又左衞門さんは その亡きがらを正定寺に ねんごろに葬ってあげたそうです。

 それが伝わって 葬式が出せない親たちは みな 又左衞門さんの家の前に亡きがらを置いていったそうです。そのたびに又左衞門さんは 正定寺に丁重にほうむってあげたので 立石家の過去帳には「立石捨て子」とたくさん書いてあります。それは 又左衞門さんが 費用を出して葬式をしてあげた子どもたちのことです。

 また 亡くなった子どもばかりではありません。親が育てられない子を 店の前に置いていくこともありました。それらの子どもをすべて受け入れて育て、養子に出してあげたり、店で使用人として仕込んで、その子の生活が成り立つように、してあげた数は相当数だったそうです。それで「子育ての立石」とも言われたそうです。





 今も「節水、節水」とよく言いますが、江戸時代も 降水量が農業をするには少なく、農民たちは たくさんの ため池をつくって農業用水として使っていました。

 筑前糟屋郡戸原村の大庄屋に長 卯平さんというひとがいました この地方(筑前糟屋郡戸原、江辻、大隈諸村)でも筑前三大池のひとつに数えられる駕輿丁池、また古大間池、新大間池などをつくっていましたが、雨水を溜めるだけの天気任せのため池でしたから、しばしば農業用水が足りなくなり、一帯は、非常な飢饉に襲われました。そこで卯平さんは、何年もの綿密な現地調査の後に若杉山の谷川の水源から直接、水を新大間池に引いて潅漑用水にする計画を立てました。 


 文化12年(1815年)工事を始めましたが、途中で巨大な岩にはばまれて難工事になり、準備していたお金は底をついてしまいました。 困った卯平さんは 藩に費用を出してもらう交渉をする為に村の調円寺を通して博多の正定寺に助けを求めました。それで檀家だった又左衞門さんに話がもちこまれました。その頃の又左衛門さんは、藩の重役と直接交渉が出来る「博多年行司」の職についていましたが、黒田藩は財政に余裕がありませんでした。

 それで又左衞門さんは義侠心のある人でしたから、「その費用一切を出しましょう」ということになりました。


 卯平さんは 元気づけられて再び工事にかかりその巨岩に五拾余間(約100m)の隧道(トンネル)をほり、その前後の溝渠を弐千余間(約4,000m)つくり、若杉山の渓流を導水して「新大間堤仕掛溝」を完成させました。その水は新大間池から分水して古大間池に流され、さらに駕輿丁池にも溜められました。それからまたさらに須恵川に水を落として、箱崎の田畑まで豊かに潤しました。流域の村々の約二万の人々が恩恵をうけました。その総費用はお米の価値で現在に換算すると二十八億円くらいだったそうです。また又左衛門さんの後継の弟 又六は、完成後の仕掛水路の補修費用を全て受け持ったということで、藩から「ひ孫の代まで四代にわたって『格式』を与える」との褒賞を受け、 その古文書が粕屋町立歴史資料館に残っています。

 その後、いままで どんな干ばつの年でも 新大間池の水はかれたことがないそうです。またこの仕掛け水路をサラサラと流れる清水は、180年前と変わらず現在でも多くの水田を潤し続けています。













         顕彰碑                       新大間池 



















         顕彰碑                   顕彰碑(拡大部分)


新大間池のほとりにたてられた顕彰碑には 


  『..若杉山渓流導水ノ中間有巨厳不鑿...』

  『..又左衞門戸原産有侠名聞翁言大悦之約...』

  『..隧道長五拾間、其前後作溝渠弐千余間...』

  『..其費用幾万金皆立石氏所辨也 爾来池水未曾涸無...』   

                                       と刻まれています


博多の年行司とは博多の町役人の筆頭のよび名であるが、その起源は中世にさかのぼるという、博多は古代以来海外貿易で栄えた町であるから、貿易で蓄富した町人も多かったであろうが、博多の富の獲得に成功した領有者の支配と権力に博多町人らが打ち負かされないためには、町人の団結と町人の代表者による指導が必要であった。その町人の指導者が博多年行司である。かれらは大内氏、大友氏支配下の博多の町政に力を貸すことで町民を守り、秀吉の「唐入り」では兵站を担当して博多の商業圏の拡大に寄与し、博多町人を地域の商人から天下の商人へ浮上させた。黒田藩政になっても町奉行のもとで町人側代表として重きをなした。

                 福岡大学名誉教授 武野 要子 (ハカタ・リバイバル・プラン顧問)

  表糟屋郡大庄屋 長卯平 と 博多商人 立石又左衛門久明