種田 山頭火 略歴

 

種 田  山 頭 火 略歴


明治15年1882年山口県佐波郡西佐波令村第136番屋敷(現・防府市八王子2丁目)にて12月3日に誕生

明治35年1902年21歳早稲田大学大学部文学科に入学。

明治37年1904年23歳早稲田大学を神経衰弱にて退学。帰郷。

大正2年1913年32歳自由律俳句誌「層雲」に出句。個人雑誌「郷土」創刊。俳号「山頭火」を宣言。

 

大正5年1916年35歳古書店・額縁屋「雅楽多」を開業。

大正8年1919年38歳単身上京。額縁行商。

大正10年1921年40歳「東京市役所」事務員。

大正11年1922年41歳「東京市役所」事務員を退職。額縁行商

大正12年1923年42歳関東大震災に遭遇。熊本に帰郷し仮寓。

 

大正15年1926年45歳一笠一鉢の旅立ち。九州地方行乞放浪の旅。防府にて「改名届」。

昭和2年1927年46歳~昭和6年1931年50歳 山陽・山陰・四国・九州地方の行乞。

熊本で「三八九居」の自炊生活。ガリ版刷個人誌「三八九」編集発行(一~三集)。

自筆ノート「行乞記」。

 

この漂泊行乞時期に同門の友人であった三宅酒壺洞氏が物心両面から山頭火を援助したので、しばしば酒壺洞氏宅を訪れ、句会を開き、何度か宿泊した。このことは、日記に克明に記されており、酒壺洞氏の子女を題材にした句も作っている。

 

幼い靨で話しかけるよ        昭和6年12月31日  酒壺洞房   

 

人の子竹の子ぐいぐい伸びろ    昭和7年5月31日  (酒壷洞君第二世出生)鶏肋集

 

若葉に若葉がかさなった      昭和7年8月25日  (酒壺堂君第二世出生)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山頭火が宿泊した 三宅酒壺洞氏宅。この家の二階で、句会を開いていました。また玄関口で写真を撮った事が記録にありますが、その写真は博多大空襲で焼失してしまいました。

 

 

これは2006年8月3日(木)大浜公民館講堂で行なわれた山頭火研究家で三宅酒壷洞氏の女婿の西野善男 氏 のはかた博物館第一回講話会の内容をもとに作成したものです。

流浪の俳人 種田山頭火は、博多に昭和の初め(明確な記録があるのは昭和5年12月5日、昭和6年12月28日、昭和7年4月9日)同門の俳人で、仙厓和尚の研究家でもある三宅酒壺洞氏を訪れる為に大濱(現在の博多区大博町)に来ました。

僧形で乞食しながらまさに この「流灌頂通り」を歩いてきたのです。


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