260年の昔から8月24日〜26日の三連夜 博多の夏祭りの掉尾を飾る

 

博多大濱流灌頂

 大濱流灌頂由来

■江戸中期、東長寺の某大律師が隠居後、竪町濱( 大博町8)に「知足庵」を結んでいた。宝暦5 (1755) 年大暴風雨により博多湾で多くの難船があり、また町で は家々が倒壊し大きな被害が出た。続いて翌宝暦6 (1756) も疫病流行で多くの人々が犠牲になった。これらの人々の霊を供養するため、その年の旧暦の7月24日から26日まで、知足庵で東長寺一山によって供養を行なったのが、始まりといわれている。                                                (博多大濱流灌頂承継保存会編 大濱流灌頂栞)

■また一説に、『享保18-9(1733-4)の両年に亘り大飢饉打続き、近郷近在より食を求めて博多市内に殺到し街路に餓死するもの算なく實に悲惨を極めたり。依りて其死屍を方面方面に集め合葬せり大濱一丁目濱(当時竪町濱)幾世町停留所の横に在る供養塔是なり』(現 大博町12所在)


『また今の大濱通りに舩持(廻船問屋)及び漁師多数居住年々難風雨の為め難舩溺死せる者多ければ是等の死者の霊と併せ供養の為め寛政2(1790)今の大濱一丁目施主となり大施餓鬼祭を挙行せり是大濱流灌頂の始めとす。』                            (立石家文書 昭和15(1935)年)  


■『此祭典を大濱四ヶ町に当番することになれるは、大濱一丁目(竪町濱)が第一回施餓鬼の際、暴風雨に遇い施餓鬼堂等吹飛されたるに依り二丁目(濱口町濱)、三丁目(市小路濱)、四丁目(西町濱)町の人々同情し加勢援助せるを以て協議の上、濱四町に順回とし以て今日に至るものなり』                                       (立石家文書 昭和15(1935)年)


■『毎年七月二十六日から二十八日まで博多大浜の各町に流灌頂が行われる。この行事は昔享保十七年の博多の大飢饉と、翌年流行した疫病で死んだ人々の霊を供養する法要で、博多の夏を飾る年中行事の一つである。仙さんの在世中は繁華街が博多部の中央にあったので、この流灌頂もなかなか盛大に行われ、町々には大燈籠がかけられ、家々の軒端には絵燈籠がともされた。そして皆その絵を見て廻るのが楽しみだった。』                                   (仙 百話 第四十九話 石村善右 著)




 江戸時代当時、大濱(竪町濱、浜口町濱、市小路町濱、西町濱)は、廻船問屋が建並び、新舩入(しんふないり)( 博多中学校)を母港とする博多の二十艘余の商船隊は、大坂、江戸への藩米回漕のほか、当時の物流の大動脈=『北前船(きたまえぶね)』として山陰、東北地方へ交易し、巨利をあげ、博多のウォーターフロントとして繁栄していた。

 大濱流灌頂は、この『濱流(はまながれ)』の町々の経済力に支えられて 年々盛大に行なわれるようになった。そして 明治、大正、昭和と続き、昭和30年代前半までは サーカスや見世物などの多くの小屋が掛かり夜店が立ち並んで賑わった。


 昭和30年代初めの売春防止法施行で通称「大浜遊郭」のあった町の勢いが大きく失われ、次いで30年代末の町名改正で、大浜は、大博通りを境に大博町と神屋町に分断された。それを機に神屋町(旧大浜3丁目、4丁目)は、祭りから外れた。