宗湛と太閤秀吉

 

 石城志 巻之九 人事 上


文禄元年、朝鮮征伐のため、肥前名古屋に在城し玉ひければ、.....。


 同年十月晦日の朝、秀吉公を博多西町の宅に屈請し、茶をすゝめ饗應し奉る。

 茶寮には圍爐裡(イロリ)にじやうはりの釜五徳すへて、上段に面影の壺を餝(カザリ)たり。

 御相伴は織田有樂(信長公の二男、源五郎信益。)、一人なり。

 勝手には小寺休夢・宗凡・山中山城守、次の間には大名・小性・十人餘、其外は廣間又は隣家の宗宅が家に並居たり。

 本膳五百人餘、其外汁かけ食数をしらず。又、強飯袢を握りて半切桶五六に入て出しけり。

 此時の献立、宗湛日記に見えたり。今是を略す。

 又段子十端、沈香三斤。を捧けるに。秀吉公、斜ならず悦び玉ひ、銀子百枚を宗湛に賜ふ。


 帰らせ玉ふ時は、住吉河原まで、御供せしに、(住吉河原は今の中洲也、其時の通路は西門より店屋町筋を経て住吉河原通り、今の二ノ丸の内より六本松を通て、太閤道に至りけると云う。) 乗り物を居へさせられ、長束大藏太輔と宗湛とを召れ、國中の事など尋問玉ひ、銀子入用あらば何程も借渡すべし、名古屋へも來りて商売等致べしとの仰也。宗湛愼て是を奉謝して帰宅せり。


 其時、宗湛が家に不思議なる事あり。茶室の前に一株の松あり。然るに、前夜霄より鷹一羽來りて下枝に集(トマ)りけるが、秀吉公遷御の時に至りて、始めて飛去ぬ。

 


    



















 



ところで、「神屋宗湛」「神谷宗湛ではありません。


かつて東京大学の先生が博多に神屋宗湛の事を調査に来られた折、ご高齢だったので、口述筆記をされました。 その時の筆記者が関東ご出身の方で、関東では「かみや」姓は「神谷」と書くことが多いそうで、つい「神谷宗湛...」と記録されたらしいのだそうです。その筆記録を東大の先生は帰京後チェックされ、「谷」「屋」と鉛筆で訂正されていたのだそうですが、それが薄く書かれていたせいか、見落とされ、「神谷」のままで印刷にまわされてしまい、その先生が斯界の権威であった為に、広辞苑などの権威ある辞書までも、それを参照して一般に流布してしまいました。

その間違いを子孫の神屋さんが指摘しても出版社は、証拠を示せと言って なかなか訂正してくれないそうです。そういうわけで「神谷宗湛」さんが日本中を徘徊している次第です。

これは神屋家の十九代の子孫の神屋 浩さんからの切実なお願いです。

「神たに宗湛」さんが歩いているのを見かけられた方は、ぜひ「かみそうたん」さんと訂正してあげて下さい!

わたくし共ハカタ・リバイバル・プランも訂正に取組んでまいります。既にウィキペディアでは、訂正され、【「神谷」は誤り。】と付記されています。

よろしく ご協力くださいますよう  お願い致します。

詳しくは、ハカタ・リバイバル・プラン顧問の武野要子福岡大学

            名誉教授の著書「神屋宗湛」をお読みください。

吹 毛 軒

秀吉以下戦国諸大名をもてなした茶室「吹毛軒」は、

第二次大戦の米軍の

都市無差別爆撃により、焼失してしまいました。

現在その礎石と石灯籠などが、天神の富士ビルに保存されています。