山頭火日記(博多 大濱 三宅酒壺洞氏 関係部分抜粋)

1932年4月17日日曜日

 

 花見日和 福岡市 出来町 高瀬屋

 

 わざと中洲福岡市に於ける第一流の小売商店街を行乞した。行乞相はよかったけれど、所得は予想通りだった、二時間で十五銭、まあ百軒に一軒ゐただいたぐらゐだらう、いたヾかないのになれて、いたヾくと何だかフシキなやうに感じた。

 

 大浜の方は多少でる、少し歩いて、約束通り酒壺洞房を訪れる

 

アルコールなしで短冊六十枚ばかり、半切十数枚書いた(後援会の仕事の一つである)、悪筆の達筆には主客共に驚いたことだった、折々深雪女来訪、酒がまはれば舌もまはる、無遠慮なヨタはいつもの通り、

 

 夕方酒君と共に農平居を襲ふ、飲んだり話したり、山頭火式、農平式、酒壺洞式、十時過ぎて宿に戻る、すぐ、ぐっすり寝た。

 

 どうも近来飲みすぎる、友人の厚情に甘えるのもよくないけれど、自分をあまやかしてもよくない。

 

  風がまたたく旅をつづけてきてゐる

 

  おわかれのせなかをたたいてくれた  (農平居)

 

 

一握の麦、それが私をよくした、といふのは、行乞中に或る家で、子供が米と間違へて麦をもってきた、受けては困るけれど、受けなければなほ困る(いつぞや佐世保で志だけ受けるといったら、その子供が泣きだした)、ハンカチーフでいたヾいた、そして宿まで持って帰って鶏にやったら食べてくれない、ボクチン宿のニハトリなんかぜいたくなものだ。

 

私と俊和尚とは性情に於て共通なものを持ってゐる

山頭火日記(博多 大濱 三宅酒壺洞氏 関係部分抜粋)

1932年4月18日月曜日